観客を引き込む表現力と世界一のストレートラインステップを武器に、ファンを魅了してやまないフィギュアスケーター、高橋大輔選手。
360度囲まれた氷上で堂々とした演技を見せる彼ですが、その場所は長い努力と苦悩の日々から勝ち得たものなのです。
氷上の貴公子の覚悟に迫る!~ドラマチックな男『高橋大輔』の軌跡~
滑り出し順調だったジュニア時代
高橋選手がフィギュアスケートを始めたのは8歳の頃でした。
岡山県倉敷市の自宅近くのスケート教室に行ったのがきっかけで、程なくしてジュニア選手の登竜門とも言われる「全国有望新人発掘合宿」(通称・野辺山合宿)に参加。コーチ陣に見込まれて仙台のスケートリンクに通うようになり、ここで長年のタッグを組むことになる長光歌子コーチと初対面します。
長光コーチは幼いながらも光るスケートセンスを目の当たりにして、「いつか必ずすごい選手になる」と確信したそうです。
その後2001年・全日本ジュニア選手権優勝、2002年・世界ジュニア選手権も優勝。世界ジュニアでの日本人男子優勝は初の快挙で滑り出しは順調でした。
ところが、ジュニアを卒業してシニアの大会に出場するようになると成績が上がらなくなり、長光コーチと海外遠征をして有名コーチの指導も受けましたが、結果の出ない日々が続きました。
トリノオリンピックで目覚めた「何か」
彼が頭角を現し始めたのは2005年~~2006年のシーズン。グランプリシリーズ・アメリカ大会で優勝し、1枠しかなかったトリノオリンピックの男子代表に選ばれたのです。
初のオリンピック出場は緊張からか演技に硬さが見られ、8位入賞に留まりましたが、女子代表の荒川静香選手が金メダルを獲得したことによって予想外のフィギュア熱が日本で発生しました。
当然、男子代表の彼にも注目が集まり、そのルックスからメディア露出も増えて最初は戸惑う様子もありましたが、「たくさんの人が応援してくれてる。自分を見てくれている」という意識からか、彼の繊細なスケートに大胆さやセクシーさが増してきて4回転ジャンプも決まるようになるなど、演技が大きく変わってきました。
そして2007年~2008年。ベースに「白鳥の湖」を使用しながらアレンジはフィギュアスケート初と言われたヒップホップ調。
この曲で軽快にステップを踏む演技に注目が集まり、海外ファンを一気に増やしたシーズンでした。世界フィギュア、グランプリファイナルなど名だたる世界大会で表彰台に上がり、次のオリンピックへの期待が高まっていました。
そんな中、彼に最大の試練が訪れます。2008年10月、練習中に右膝の前十字靭帯と半月板損傷という怪我に見舞われシーズンの大会への出場を断念、オリンピックに向けて彼は手術を受ける決意をしました。
以前と同じように出来ない恐怖との孤独な戦い
手術は無事終わりましたが、その後のリハビリが彼を苦しめます。自分の体が思うように動かない不自由さと周りの選手の成長に焦りも感じ、彼は「スケートを辞めよう」と何度も考えたそうです。
実際にリハビリから抜け出して行方不明になったこともありました。長光コーチは彼の選択に任せようと、捜そうとはしませんでした。すると1週間後に、彼はコーチの家に現れたそうです。追い詰められた彼の姿を見てコーチは言いました。
「大輔、戻っておいでよ。しんどかったら、フィギュアやめたっていいんやで……。私から、スタッフみんなに謝ったる、それも大切な私の仕事やから」
この言葉を聞いて、彼は肩に背負っていた重い荷物がふっと軽くなったように感じたのでしょう。後日、スタッフや関係者に心から謝罪をして再び「チームダイスケ」が始動したのです。
競技復帰となった2009年~2010年シーズンに全日本選手権で優勝。バンクーバーオリンピック日本代表を勝ち獲り、自身の挫折も演技に取り込んだのでは?と思われるフリープログラム「道」(道化師の人生を描いています)をひっさげ、オリンピック出場。
日本男子史上初の銅メダル獲得となりました。
更に数ヶ月後の、2010年世界フィギュアの記念イヤーとなる第100回大会で見事に優勝し、日本男子初の世界チャンピオンとして表彰台に立つ姿に、「高橋大輔復活!!」と、多くのフィギュアファンが涙したことでしょう。
世界一の代表戦「全日本選手権2013」の死闘
2011年~2012年になってくると、若手が頭角を現しはじめます。小塚崇彦選手、羽生結弦選手、町田樹選手、無良崇人選手……。オリンピックイヤーが近いこともあって、それぞれがオリンピック出場に向けて火花を散らしていました。
長年ライバルとして存在していた織田信成選手もこれで最後のシーズンにすると発表し、日本代表争いは世界で一番熾烈な戦いと言われました。
この大事なシーズンに、彼は何度となく怪我に苛まれます。万全の体調で試合に出ることは叶わず、ジャンプの精度は明らかに落ちていました。それでも彼しか出来ない表現力とステップを武器にして精一杯の演技を見せます。
日本代表になるには表彰台が必須、と言われた全日本選手権。彼の最終順位は5位でした。
演技後のインタビューで涙をにじませ「これで最後の演技になるかもしれないと思ったら、今までありがとうございましたって気持ちで……」と答え、彼の中ではソチオリンピックの灯(ひ)は消えたと思っていたそうです。
大会終了後に会場で代表選手の発表が行われ、彼の名前が伝えられたときには会場が揺れるくらいの歓声が沸き上がり、彼は3度目のチャンスを与えられたのです。
休養宣言は終わりじゃない
落選した選手の思いも背負って出場したソチ五輪でしたが、残念ながら結果は6位入賞でした。
その後、またも右足に故障が発見され、世界フィギュアは欠場し、このまま引退とも囁かれましたが、ひとまずは2014年~2015年のシーズンは1年間の競技参加休養が発表されています。
休んだ後の彼がどれほどの力を蓄えて戻って来るか楽しみで、期待せずにはいられません。
彼が自分、そして周りを信じる限り、「道」は開かれて行くのでしょう。
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