今回は、遠い存在であるはずの歴史上の偉人たちが、少し身近に感じられる面白エピソードを紹介してみたいと思います。
では、お楽しみください。
食い逃げした「徳川家康」
三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍勢に敗れた徳川家康は、敗走中に腹を空かせて一件の茶屋に入り、小豆餅を頬張りました。するとそこに武田軍の追手たちが追いつき、家康は驚いて代金も払わずに逃げ出します。
茶屋の店主である老婆は激怒し、家康を数キロ先まで追いかけ、「殿様が食い逃げするとはなにごとかね」と言って代金を払わせたといいます。
この出来事に基づき、後の時代、この茶屋があった場所に「小豆餅」、お金を受け取った場所には「銭取」という地名が付けられたそうです。
他人の手が気になって仕方なかった「ケインズ」
経済学者のケインズは他人の手、特に指と爪に非常に強い執着を持っていたようです。爪に関しては丸い爪よりも細長い爪を好んでいたと言います。
また他人の手を見ることで性格診断のようなことも行っていたようです。ケインズが特に気に入っていたのはアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの手で、その手に関して詳細な記述を残しているようです。
ケインズは自分自身の手を他人に見せることを嫌っていましたが、その反面自分自身の手に愛着を持っていたようで、自分と妻の手の鋳型を作ったりもしました。
子供を捨てた「ジャン・ジャック・ルソー」
ルソーは「社会契約論」やその中での「一般意思/全体意志」という概念で有名ですが、その一方で「エーミール」などの教育論でも有名です。ただ、そんなルソーですが、自身の私生活では自分5人の子供全てを孤児院の玄関前に捨てたりもしました。
これについてルソーは「自分には偉大な執筆活動の仕事があり、それと子育ては両立できない。もし両立しようとすれば執筆も子供も両方が死ぬことになる。両方とも犠牲にしないためには孤児院に送ることが最善の道だ」と語ったそうです。
また、ルソーは露出癖があり、公然わいせつ罪で逮捕された経験もあるそうです
詐欺で訴えられた「クラーク博士」
「少年よ大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士。札幌農学校で教鞭をとり、明治初期の日本に自然科学という概念をもたらしました。
そんなクラーク博士はアメリカに帰国後、様々な事業を展開しましたが、結局はあまりうまく行かず、次々に新しい事業に手を出したことから出資者に不審がられ、詐欺罪で訴えられてしまいました。
当時の「お雇い外国人」の給料は相当に高額だったと言われていますが、晩年はその財産も使い果たし、寂しく没していったと言われています。
人造人間を作った「西行法師」
歌人として有名な西行法師は親友に先立たれた寂しさを紛らわすために、「鬼の秘術」を学んで死者の骨を集め、人造人間を作ったそうです。
ところが作り出された人造人間は顔色が悪く、奇妙な声で歌を歌い、大変不気味だったため、気味が悪くなった西行法師は人造人間を山奥に捨ててしまったそうです。
キリスト教を学んだ「空海」
一般的にキリスト教は、1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたとされますが、実はその700年以上前、空海が遣唐使として派遣された唐の国の首都、長安で当時中国で流行していたキリスト教ネストリウス派(景教)を学んでいたということが現在では定説になっています。
現在でも空海によって興された真言宗においては、法要の前に僧が十字を切る風習があったり、高野山の院御廟前の灯篭には十字架の印章が付けられています。
また高野山には唐の時代における中国でのキリスト教の流行を記録した「大秦景教流行中国碑」のレプリカが安置されています。
イタズラが原因で崩御した「四条天皇」
四条天皇は1232年(寛喜3年)12月5日に2歳で即位しました。ところが10年後の1242年(翌仁治3年)1月9日に12歳で崩御していまいます。
死因としては、近習の者や女房たちを転ばせるために御所の廊下に滑石を置いておいたところ、誤って自分自身が転んでしまい、脳挫傷を起こしたため、と言われています。
変わった特技を持った「近藤勇」
新選組隊長、近藤勇には拳を口の中に入れる、という特技がありました。初対面の人間と会う時近藤は、この特技を見せて相手を驚かせていたようです。
NHK時代劇「新選組!」のキャスティングで近藤勇役に香取慎吾が決定したのは、脚本の三谷幸喜が香取を見て「彼なら口に拳を入れられるかも」と思ったのがきっかけであると言われています。
また、当時は小麦粉を飴で丸く固めた「ゲンコツ」という駄菓子があったのですが、近藤勇はこれが大好物で普通は一個ずつ食べるところを、3個から4個まとめて口に入れボリボリと食べていたようで、これも周囲の人間を大変驚かせたようです。
姪の死にショックを受け、自殺しようとした「ヒトラー」
アドルフ・ヒトラーはゲリという名の姉の娘を大変可愛がっていました。ゲリは父親が早くに死んでしまったため、母親とともに当時ナチス党が事務所として借り上げていたアパートに住んでいました。
ある時ゲリはヒトラーにウィーンに声楽の勉強に行きたいと申し出ましたが、ヒトラーはそれを許しませんでした。ヒトラーはゲリを溺愛するあまり、かなり束縛的な態度を取っていたようです。
ゲリはそれにショックを受け、程なく自殺をしてしまいますが、ヒトラーはそれにショックを受け自身も拳銃で自殺をしようとします。
自殺は阻止されたものの、明くる日ヒトラーはアパートから姿を消し行方不明になっていまいます。数日後ヒトラーの行方を探していたゲッベルスがウィーンにあるゲリの墓のそばでヒトラーを発見。その時ヒトラーはゲリの墓の横に穴を掘りその穴の中にうずくまっていたといいます。
ヒトラーはベルリンに連れ戻され、数日後に当時のヒンデンブルグ大統領と面談しますが、精神が錯乱しており会話にならなかったと言われています。
ギャンブル依存症だった「ドストエフスキー」
ドストエフスキーは大のギャンブル狂としても知られています。
ドストエフスキーが特にハマっていたのはルーレットで、41歳の時、ヨーロッパ各国を旅行中に立ち寄ったカジノでゲームに興じたことをきっかけのめり込み、これによって数々の作品のヒットによって生み出された全財産を失い、借金のかたとして沢山の出版契約を結び、作品を量産せねばならなくなりました。
そんなドストエフスキーが自身の体験を元に、わずか27日間で書き上げたのが「賭博者」という小説で、美女とともにギャンブルにのめり込んでいく青年の物語であり、こちらも大ベストセラーとなりました。
またドストエフスキーは若い頃に当時お手伝いさんとして家に来ていた少女を強姦したことがあり、それを生涯にわたって悔いていたとも言われています。
【番外編】
歴史上の偉人たちの面白エピソードの番外編として、ADHD(注意欠陥多動性障害)だった歴史上の人物たちを紹介します。ADHD(注意欠陥多動性障害)は多動性、不注意、衝動性などの特徴を持つ発達障害、行動障害の総称です。
具体的な症状としては注意力がない、集中することが困難、体のどこかを動かさずにはいられない、などがあります。特にアメリカでは社会問題にもなっており、リタリン等の薬物療法の対象とされますが、一方で芸術家、発明家、政治家、ジャーナリスト、起業家などに多いともされています。
それではどんな人物がいたのか、実際に見て行きましょう。
細かいことにこだわらなかった「坂本龍馬」
坂本龍馬は日本史上最も有名で、なお確実なADHD者だったと言われています。精神医学会でも「ADHDと言えば坂本龍馬」と言われるくらいの有名人であるそうです。
坂本龍馬は10歳を過ぎてもお漏らしの癖が治らず、食事の際には食べ物をボロボロとこぼしていたそうです。
一方で過剰とも言える合理性の持ち主でもあり、ある時雨が降って小川の橋が壊れてしまった時、他の人々が身体が濡れ、着物が汚れるのを嫌がって立ち往生している中、ザブザブと小川の中を渡って行ってしまったというエピソードもあります。
ADHDの特徴として「細かいことに注意が払えない」という性質があるようですが、それが「些細な問題より本質を重視する」という態度に繋がり、薩長同盟や大政奉還や日本初の株式会社である亀山社中の設立、剣の達人ながらもピストルで護身するなどの発想に繋がっていったとも言えそうです。
並外れた発想力と行動力を持った「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
レオナルド・ダ・ヴィンチは幼少期から短気で、よく癇癪を起こす子供であり暴力沙汰を起こして学校を退学になったこともあるそうです。また、何かを空想することも大好きで、ぼんやりと考え事にふけることが多かったと言われています。
またこうした傾向は大人になっても続き、ダ・ヴィンチがその生涯を通して着想したものの内から完成にまでこぎつけた作品や発明はごく一部とされており、その他の多くの作品、発明は途中で投げ出されたと言われています。
さらに目的のためなら手段を選ばないという傾向もあり、正確な人体を描くために墓地を盗掘したり、妊婦の死体を解剖して胎児の成長過程を調べるなども行っていたそうです。
ADHDに加え、躁うつ病でもあった「ウィンストン・チャーチル」
チャーチルは幼少期読み書きが上手く出来ず、ラテン語の授業で一人英語を学んでいたと本人は語っています。またまた過活動的な面もあり、授業中に騒いだり、いたずらを繰り返すなど学校では問題児とされていました。また晩年まで時間を守って行動するということが出来なかったとされています。
また、彼はADHDと併発しやすいという躁うつ病でもあったようで、躁状態では非常に活動的な反面、うつ状態では自宅に閉じこもり文章や絵を書いていたと言われています。チャーチルと言えば第二次世界大戦の対独戦が有名ですが、この当時のチャーチルは躁状態に入っていたようです。
死ぬまで問題児であり続けた「スティーブ・ジョブズ」
アップルコンピュータの創業者であるスティーブ・ジョブズもADHDであったと言われています。幼少期から気性が激しく、周囲と衝突することも多かったほか、ヘアピンをコンセントに差して感電したり、殺虫剤を舐めて倒れたりと、危険な行為が絶えなかったといいます。
こうした性質は大人になっても続き、警察沙汰になったり、長い契約書を持ってきた取引先の企業の人間に激怒したりと、この手のトラブルエピソードには生涯を通して事欠きませんでした。最後の来日時にも空港の手荷物検査で警備員との間でトラブルが起き、空港内で激怒して暴れたという報道もありました。
また、彼は読み書きがあまり得意ではなかったようで、それが後年のApple製品における直感的な操作性に繋がっていったという指摘もなされています。
まとめ
いかがでしたか?ここで挙げられたものはほんの一部で、これ以外にも歴史上には多くの面白い、意外なエピソードがあります。
ADHDの可能性があったとされている偉人・有名人としては、彼等のほかにも戦国武将の織田信長、発明家のトーマス・エジソン、アメリカ合衆国大統領であったベンジャミン・フランクリン、画家のパブロ・ピカソ、漫画家の水木しげる、作家のアーネスト・ヘミングウェイ、精神科医であり思想家のフェリックス・ガタリ、ミュージシャンのカート・コバーンなどが知られています。
コメント