人類の歴史には現代の視点では理解し難い、恐ろしく不気味な出来事が数多く存在します。
今回は、そんな歴史上における怖い出来事の一部を紹介していきます。
少年十字軍
少年十字軍とは1202年の第4回十字軍の後に編成された十字軍です。
フランスのオルレアン地方に住む12歳の少年が神のお告げを聞いたことにより、その少年の元に集まった少年少女たちによって組織されました。
彼等は支援者である商人の船に乗って聖地エルサレムまで向かいましたが、そのうちいくつかの船は途中で難破し、残りの船も奴隷商人の手に渡り少年少女達も奴隷とされてしまうなど、悲劇的な結末に終わりました。
劉邦の妻「呂后」
項羽を倒し前漢王朝を立ち上げた項羽の妻、呂后は夫である劉邦の死後、生前の夫によって囲われていた側室達を復讐として拷問にかけ、次々に殺していきました。
特に晩年の劉邦によって可愛がられ、皇位簒奪をも企てたことがあるという戚夫人への拷問は残虐であり、目玉をくり抜き、手足を切断し、舌を抜いた後耳に鉛を流し込み、その状態で豚小屋に餌として放り込んだと言います。
血の伯爵夫人エリザベート・バートリー
エリザベート・バートリーはハンガリー王国の貴族、伯爵ナーダシュディ・フェレンツ2世の妻であり、非常に気性の荒い人物として有名でした。
ある日、エリザベートは粗相をした召使を折檻するのですが、その際手の甲にかかった地を拭いたところ、その部分のみ皮膚が綺麗になったように感じたことから、家来に命じて領内のさまざまな人物を拉致し、拷問の末処刑し、その血を浴びることを楽しみとするようになりました。
そのあまりの残虐性から王族でありながら裁判にかけられることとなり、有罪とされ小窓一つが開いた漆黒の部屋に終生幽閉されるという刑に処されました。
平将門の首
承平天慶の乱によって敗れた平将門は斬首刑となるのですが、「太平記」によると将門の首は切り落とされても尚「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたと言われます。
また、一説にはその首が元領地であった関東に向けて飛び立ち、途中にて力尽き落ちたとも言われています。
こうした落ち首伝説は全国の各地で語り継がれており、それら地域には将門の霊を鎮めるための首塚や神社などが建てられているそうです。
芥川龍之介のドッペルゲンガー
小説家「芥川龍之介」は1927年に自殺をしてしまうのですが、その死の少し前、芥川は自分自身のドッペルゲンガーを目撃したという話があります。
今となってはハッキリとした確証はありませんが、短編『二つの手紙』や中編『歯車』などの作品において芥川はドッペルゲンガーを題材としており、また整然とある座談会の中で「帝劇でドッペルゲンガーを見た」と語ったこともあるそうです。
鳥取城攻略戦
1581年、織田信長の配下であった羽柴秀吉によって行われた鳥取城攻略に際しての兵糧攻めは、戦国史においても最も凄惨な戦いであったと伝えられています。
秀吉はまず周辺地域での米を高値で買い占め、また水上での敵方毛利の食料輸送を遮断します。
さらに周辺の村を攻撃し村人たちを城内に逃げこむよう仕向け、城の中を人で溢れさせます。さらに城から出てくる人々を銃によって狙撃していきました。
これにより城内は瞬く間に飢餓状態となり、さらに毎日のように鉄砲と大砲によって攻撃が加えられたことで人々の精神は錯乱し、ついに共食いまでが始まり、人の肉が城内で奪い合いになるなど惨憺たる事態となりました。人々は体の中でも最も栄養価が高いとされる脳味噌を特に欲したとも言われています。
こうした兵糧攻めは4ヶ月間続き、あまりの事態に城内の有力者たちが切腹することで開城がなされました。解放された城内の人々には配給として米が配られたのですが、極度の空腹状態から一気に大量の米を食べたことにより、さらにたくさんの人びとが胃痙攣を起こして死亡したと言われています
シェーンベルグの死
無調整音楽や12音技法などを考案し、ジョン・ケージなどの現代音楽家を指導したアルノルト・シェーンベルクは、元々心臓が弱かったこともあってか、死に対して大きな恐怖心を抱いており、特に13という数字を忌み嫌い、毎月13日になると一日中妻が手を握って励まし続けなければならないほどでした。
1951年7月13日、いつものようにシェーンベルク夫妻は部屋の中でじっと時が過ぎるのを待っておりましたが、時計が日付をまたいだことで安心し、妻は彼の元を去りました。
しばらくして妻が戻ってくると、そこには夫であるシェーンベルクの変わり果てた姿が。その部屋の時計は数分進んでおり、シェーンベルクは13日のうちに死んでしまったということです。
崇徳上皇の祟り
保元の乱によって敗れた崇徳上皇は讃岐へと流刑され、そこで生涯を終えるのですが、その後、都では街の3分の1を焼失するという大きな火事が発生しました。
また死者4万人を超える大飢饉が発生、さらに保元の乱の際に敵対していた後白河、藤原忠通の関係者が次々と病死するなど、数々の災難が起こるようになります。
さらにさまざまな政治的な混乱も発生し、人々はこれを「崇徳上皇の祟りではないか」と噂しました。
アッツ島の火の玉
1943年のアッツ島の戦い以後、日本軍は玉砕戦になだれ込んでいくことになるのですが、このアッツ島の玉砕後、島の周囲を偵察していた日本軍潜水艦が明らかに砲弾や照明弾とは違う、オーロラのような火の玉を目撃したという報告があります。
潜水艦の乗組員たちはこの火の玉を「玉砕した英霊だ」と語り合ったそうです。
また、アッツ島陥落に伴い同じアリューシャン列島のキスカ島にて行われた撤退作戦では、存在しない謎の影が米軍のレーダーに映りこみ、それが結果的に囮の役目を果たしたことにより、撤退に成功したという話もあります。
駿府城の肉人
江戸開幕間もない1609年の4月4日、駿府城の中庭に突如肉の塊のような姿をした謎の人物が現れたという話が当時の書物「一宵話」に残されています。
警備の者達は当然これを捕らえようとしますが、非常に動きが素早いためまったく捕まえることができなかったといいます。当時の駿府城に住んでいた徳川家康はその肉人を外へ追い出すよう命じ、家来たちは捕獲をあきらめて城から山のほうへと追い出しました。
またその日の午後、肉人を追いやった山のほうで謎の光る雲が発生したという記録もあります。
八幡の藪知らず
八幡の藪知らずとは、千葉県市川市八幡に現在も存在する森の名称です。
古くから神かくし伝説などで知られる地であり、禁足地(入ってはいなけない土地)とされています。水戸黄門でおなじみの水戸光圀が若い時この地に足を踏み入れ、怪奇現象に遭遇したという逸話も残っています。
孟宗とタケノコ
中国の三国時代の呉の官僚であった孟宗の母親はタケノコが大好物であったそうです。
ある冬の時期、タケノコを食べたがっている母の姿を見た孟宗は竹林に向かって祈りを捧げました。すると旬の時期でも無いにも関わらずタケノコが地面から顔を出し、孟宗は母親にタケノコを食べさせることができたといいます。
竹の一種であるモウソウチクは、この故事から命名されました。
白装束の集団
元寇の文永の役の際、元軍に打ち破られた日本軍は敗走するのですが、その日の夕方、元軍によって火を付けられ炎上する筥崎八幡宮より突如として30名ほどの白装束の集団が現れ、元軍に向かって矢を射かけたという記録が残されています。
また、これに驚いた元軍が海へ逃れると海上より突如大きな火が起こり、その火の中から兵船が現れ元軍の兵をすべて討ち取ってしまったとのことです。
メキシコ女王伝説
宮崎県の島野浦で今から150年ほど前、江戸時代の終わり頃に起こった事件で、カツオ漁に出ていた漁師が浜へと戻ろうとしたところ、波間に漂う大きな木箱を発見しました。
船中の12名は老船頭の命令で、その木箱を引き上げ、 手斧で開けてみると、中からは、白骨化した人間の遺体が発見されました。
その髪はフサフサの金髪で、そしてその周りにはキラキラ光る石や黄金の冠などが入っていたそうです。これを発見した漁師達は祟りをおそれ、どこかに埋める事とし、この事をこの島だけの秘密としました。
ところが年月が過ぎるとこの噂は広く知られるようになり、戦時中には警察や軍隊もこの島を訪れるようになったということです。
そうしていつしか木箱の中の 亡骸は「メキシコ女王」と呼ばれるようになりました。しかしその木箱が島のどこに存在するのかは、未だにまったく判っていないようです。
ロサンゼルスの戦い
第二次世界大戦中の1942年2月25日、アメリカのカルフォルニア州ロサンゼルス上空に突如として謎の飛行物体が襲来し、陸軍の対空砲火部隊との間で戦闘が行われました。
これが「ロサンゼルスの戦い」です。この飛行物体は上下左右に自由に移動し、さらに空中にて静止するなど、通常の航空機とはまったく異なる動きをしたそうです。
この戦闘の模様は全米にラジオ中継され、対空砲火の砲弾の破片に当たり3名が死亡しました。
当時米軍は飛来した飛行物体を日本海軍機としましたが、日本側にはこのような攻撃を実行したとの記録はなく、未だにその正体は不明なままです。
まとめ
いかがでしたか
歴史上にはさまざまな怪奇事件があります。興味のある人物についてぜひ調べてみてください。
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